
仙台で勝った男、東京へ。成功体験が招いた落とし穴。 代表ブログ Vol.04|林 泰弘
仙台で勝った男、東京へ。――成功体験が、いつの間にか自分を追い詰めていた。
前回までの3回にわたって、私がなぜ不動産会社を立ち上げ、飲食ソリューション事業「FOREST FOOD WORKS」を始めたのか、その想いをお伝えしてきました。
ただ、ここで少し時間を巻き戻してみたいと思います。
今でこそ、飲食店の出店支援や商業施設の店舗開発、不動産の仕事をしていますが、もともとの私は、ただの飲食店経営者でした。27歳で仙台にカフェを開き、そこから店舗を増やし、東京へ進出。最終的には11店舗を経営し、年商は約5億円にまで成長しました。こうして数字だけを並べれば、それなりに成功した経営者に見えるかもしれません。
しかし、現実はそんなに格好のいいものではありませんでした。むしろ、今だから言えることがあります。
「田舎で勝ったお兄ちゃんが、東京に出てきて浮かれていただけだった」
当時を振り返ると、そんな言葉が一番しっくりきます。今回は、私の飲食人生における最初の成功と、その成功が少しずつ歯車を狂わせていった頃の話を書いてみようと思います。
■ 27歳、仙台で始めた小さなカフェ
私が飲食店経営を始めたのは27歳の頃です。場所は仙台。最初に手がけたのは、小さなカフェでした。
当時の私は、大きな資本を持っていたわけでも、経営について体系的に学んでいたわけでもありません。ただ、店をつくることが好きだった。空間を考え、料理や飲み物を考え、お客様がそこでどんな時間を過ごすのかを想像する。その一連の作業が、とにかく面白かったのです。
私にとって飲食店は、単に料理を提供する場所ではありませんでした。人が集まり、会話が生まれ、思い出が残る場所。そんな空間を、自分の手でゼロから生み出せることに夢中になっていました。
当時、カフェでのウェディングパーティーにも積極的に取り組んでいました。今では珍しくありませんが、当時はまだ、それほど一般的なスタイルではなかったと記憶しています。私たちは、お客様との打ち合わせから企画、当日の運営、その後のフォローまで、かなり熱心に取り組んでいました。
すると、あるとき、お客様から感謝の手紙をいただいたのです。これが本当に嬉しかった。
売上が上がることも、店が繁盛することも、もちろん嬉しい。でも、それとはまったく違う感覚でした。自分たちが一生懸命につくった時間が、誰かの人生の記憶に残っている。そのことが、何より嬉しかったのです。
後に私は、スタッフたちにこんなことを言うようになりました。
「お客様から手紙をもらえるようになったら、一人前だよ」
実は、この感覚が、約20年後のFOREST FOOD WORKSの仕事につながっていきます。
ただ、その頃の私は、そんな未来など想像もしていませんでした。目の前にあるのは、次にどんな店をつくろうか、ということばかりでした。
■ 私が得意だったのは、ゼロからイチをつくること
仙台での事業は順調に成長し、やがて7店舗を展開するようになりました。ここで、私自身の経営スタイルについて少しお話しします。
私が得意だったのは、いわゆるチェーン展開ではありません。同じブランドを横に広げていくのではなく、ひとつひとつ違うコンセプトの店をつくることでした。
例えば、同じ街に3店舗を出すとしても、それぞれの店にまったく異なる個性を持たせる。料理も違う。内装も違う。客層も違う。しかし、運営する側のスタッフや経営資源は、ある程度共有できる。
お客様にとっては、同じ経営者が手がけているとは思えないほど違う店でありながら、経営する側には相乗効果が生まれる。今振り返っても、このモデルは悪くなかったと思います。
特に地方都市では、非常に合理的な戦い方でした。街の大きさや人の流れを把握し、そこに適切な規模の店を配置していく。何より、私自身がそれぞれの店の空気を感じられる距離にいた。
スタッフの顔が見える。お客様の反応が分かる。店の調子が悪ければ、すぐに駆けつけられる。
経営者の感覚と、現場の状況が、それほど離れていなかったのです。この頃の私は、店舗をつくることについて、ある程度の自信を持ち始めていました。
新しいブランドを考える。物件を探す。内装をつくる。人を集める。オープンさせる。そして繁盛店に育てる。
ゼロからイチを生み出すこと。
それが、自分の得意分野なのだと、今ならはっきり分かります。
しかし当時は、その先にある「組織を大きくすること」も、自分は得意なのだと勘違いしていました。この勘違いが、後に大きな代償を生むことになります。
■ そして、東京・中目黒へ仙台で7店舗を展開し、次に目指したのが東京でした。東京で勝負してみたい。地方で成功した飲食店経営者なら、一度は考えることかもしれません。
私も例外ではありませんでした。
進出先に選んだのは、中目黒。最初の東京進出では「屋根裏のパリ食堂」を展開し、その後「港町バル」をオープンしました。港町バルは2012年、フードスタジアムにも取り上げていただきました。
東京の飲食業界における、私のひとつのデビュー戦だったと思います。ありがたいことに、店は繁盛しました。メディアにも取り上げていただき、多くのお客様に来ていただけるようになりました。
そして、ここでも仙台で培ってきた方法が通用したのです。自分でコンセプトを考え、自分で店をつくり、自分でブランドを育てる。東京でもやれる。そう思いました。
ただし、今になって振り返れば、これは少し危険な成功体験でもありました。
なぜなら、私は東京というマーケットの本当の難しさを、まだ理解していなかったからです。家賃も違う。人件費も違う。競争相手の数も違う。お客様の選択肢も、地方都市とは比較にならないほど多い。
そして何より、経営者に求められる能力が違っていました。仙台で通用した経営の仕組みが、そのまま東京での多店舗展開に通用するとは限らない。
当たり前のことです。しかし、当時の私は、それを十分に理解していませんでした。目の前の繁盛店が、その違いを見えにくくしていたのだと思います。
■ 年商5億円という数字の裏側その後も店舗を増やし、最終的には11店舗を経営するようになりました。年商は約5億円。当時は周囲からも、勢いのある飲食店経営者として見られていたのかもしれません。
しかし、ここに大きな落とし穴がありました。一店舗あたりの月商が300万円から400万円程度の小箱を、いくつも経営する。もちろん、規模が小さいこと自体は悪いことではありません。むしろ、私が得意とする店づくりには適していました。問題は、店舗数が増えることで、経営の複雑さが急激に増していったことです。
11店舗あれば、11店舗分の問題が起こります。
人が辞める。設備が壊れる。売上が落ちる。新しいスタッフが育たない。店長同士の連携がうまくいかない。そして、そのすべてに経営者である私が関わってしまう。
毎日、何かが起こる。毎日、何かを決める。毎日、誰かから連絡が来る。
いつの間にか、次の面白い店を考える時間よりも、目の前の問題を片づける時間の方が長くなっていました。それでも、売上という数字は伸びていく。だから、経営がうまくいっているように見えてしまう。ここが怖いところでした。
年商が大きくなることと、会社が強くなることは、まったく別の話なのです。
今なら当然のように分かることですが、当時の私は、この違いを理解できていませんでした。売上を積み上げることが、そのまま会社の成長なのだと思っていました。本当は、店舗数が増える前に、人材育成や組織管理、資金管理の仕組みを整えるべきだったのです。
しかし、私はそれよりも、新しい店をつくることを優先していました。
■ 東京で、何者かになりたかった
もうひとつ、今だから正直に書けることがあります。当時の私は、東京で何者かになりたかったのだと思います。
地方から東京に出てきて、店が繁盛する。メディアに取り上げられる。業界の人たちと知り合う。新しい出店の話が舞い込む。それは、若い経営者にとって非常に刺激的な環境でした。
もっと大きな仕事をしたい。もっと評価されたい。もっと面白いことをやりたい。そういう欲求が、少しずつ強くなっていきました。
当時の飲食業界には、街場の繁盛店からスタートし、やがて大きな商業施設へ出店していくという、
ひとつの成功モデルがありました。私も、そのステージに進んでみたかったのです。
そして、実際に商業施設への出店オファーが舞い込むようになりました。今まで自分が手がけてきた小箱とは、投資規模も事業構造も違う世界です。
それでも、当時の私は考えました。仙台でも成功した。東京の中目黒でも成功した。だったら、次もできるんじゃないか。
今思えば、ずいぶん単純な発想です。しかし、その頃の私には、挑戦しないという選択肢がほとんどありませんでした。成功体験というものは、時として人の判断を鈍らせます。過去にうまくいった方法が、次もうまくいくとは限らない。それなのに、一度成功してしまうと、その方法を信じ続けたくなる。私も、まさにそうでした。
■ 経営者の仕事が、いつの間にか変わっていた
ここで、少し立ち止まって考えてみます。仙台で最初のカフェをつくった頃、私の仕事は何だったのでしょうか。それは、お客様に喜んでもらえる店をつくることでした。
空間を考え、サービスを考え、スタッフと一緒になって店を動かす。しかし、店舗数が増えてからの私は、何をしていたのでしょうか。
人の問題を処理する。資金繰りを考える。新しい出店の交渉をする。各店舗の問題に対応する。
もちろん、これらも経営者として大切な仕事です。ただ、私自身の得意分野とは、少しずつ離れていきました。
本来、私はゼロからイチを生み出すことが好きだった。ところが、会社が大きくなればなるほど、求められるのはイチを10に、10を100にする能力だったのです。その違いを、私は理解できていませんでした。
得意な仕事で会社を大きくした結果、いつの間にか、自分の苦手な仕事ばかりをするようになっていた。
これは、飲食業に限らず、成長する会社の経営者が直面する問題なのかもしれません。そして、私の場合は、その問題に気づくのが遅すぎました。
■ 成功と失敗は、意外と近い場所にある
あらためて振り返ると、仙台から東京へ進出したこと自体は、決して間違いではなかったと思います。あの挑戦があったからこそ、出会えた人たちがいました。あの挑戦があったからこそ、経験できた仕事もありました。
何より、東京という大きなマーケットで、自分のつくった店がお客様に支持されたことは、今でも大切な経験です。ただ、成功したからといって、経営者として完成したわけではなかった。そこを勘違いしてしまったのだと思います。
繁盛店をつくる能力。複数店舗を管理する能力。会社の財務を健全に保つ能力。組織を育てる能力。
これらは、すべて別の能力です。当時の私は、それをひとまとめにして「経営力」だと思っていました。
そして、ひとつの成功体験を頼りに、次の山へ登ろうとしていたのです。その先に、どんな景色が待っているのかも知らずに。
この後、私の会社は商業施設への出店を進めていきます。初期投資は大きくなり、組織は膨らみ、仙台で築いてきた現場との関係にも少しずつ変化が生まれていきました。
そして、売上はあるのに、お金が残らない。繁盛店を抱えているのに、会社が苦しくなる。そんな、経営者として最も避けなければならない状況に陥っていきます。
今から考えれば、いくつもの分岐点がありました。
ただ、当時の私は、どこで引き返せばいいのか分からなかった。いや、正確には、引き返すことを考えようともしなかったのかもしれません。
次回は、年商5億円という数字の裏側で何が起こっていたのか。そして、なぜ私は、成長しているはずの会社をコントロールできなくなっていったのか。少し苦い話になりますが、包み隠さず書いてみたいと思います。
次回・第5話「年商5億円。それでも会社は苦しかった。」――店舗が増えるほど、経営者は自由を失っていった。
FOREST FOOD WORKSForest Estate株式会社
https://forestestate-tokyo.jp
