
年商5億円。それでも会社は苦しかった。 代表ブログ Vol.05|林 泰弘 ――店舗が増えるほど、経営者は自由を失っていった。
前回は、仙台で7店舗を展開し、東京・中目黒への進出を果たした頃のお話をしました。
27歳で始めた小さなカフェから、気がつけば11店舗、年商約5億円。数字だけを見れば、順調に成長している飲食企業です。
ところが、実際の経営はどうだったのか。
はっきり言って、苦しかった。毎日忙しく、問題が次々に起こり、それを解決するために朝から晩まで動き回る。売上は伸びている。店も繁盛している。それなのに、なぜか楽にならない。むしろ、店舗が増えるほど、私の自由な時間はなくなっていきました。今だから分かります。
あの頃の私は、会社を経営していたというより、自分でつくった会社に振り回されていたのです。
今回は、そんな多店舗展開の裏側について書いてみたいと思います。
■ 1店舗の成功を、10店舗に増やせばいいと思っていた
そもそも、私が得意だったのは小さな店をつくることでした。10坪、15坪、20坪。比較的小さな空間に、明確なコンセプトを持たせる。料理、内装、音楽、接客、価格帯。それぞれを組み合わせて、ひとつの店として成立させる。
そして、その街のお客様に支持される店に育てていく。この仕事は、今でも自分の得意分野だと思っています。仙台では、このやり方が非常にうまくいきました。同じ街に違うブランドの店を複数展開すれば、経営資源を共有できる。スタッフの配置も調整しやすい。お客様にも複数の選択肢を提供できる。そして何より、経営者である私自身が、それぞれの店舗を把握できる距離にいました。
ところが、東京へ進出してから、状況が変わっていきます。仙台と東京。離れた場所に店舗ができる。ブランドも増える。スタッフも増える。そして、それぞれの店舗に、それぞれの問題が生まれる。それでも私は、仙台でうまくいった成功モデルを、そのまま横に広げようとしていました。今考えれば、ずいぶん無理な話です。
1店舗を繁盛させる能力と、10店舗を経営する能力は、まったく別物でした。
この違いに気づくまで、ずいぶん時間がかかりました。
■ 店舗が増えると、問題は足し算では増えない
飲食店を経営していると、本当にいろいろなことが起こります。スタッフが突然辞める。店長が体調を崩す。設備が故障する。近隣から苦情が入る。売上が落ちる。原価が上がる。お客様とのトラブルが発生する。1店舗であれば、経営者が直接対応することもできるでしょう。実際、私もそうやってきました。
ところが、10店舗になると事情が違います。ある店の問題を解決している最中に、別の店から連絡が来る。東京の店でトラブルが発生したと思えば、仙台でも問題が起きている。その間にも、新しい出店の打ち合わせや、金融機関とのやり取りがある。毎日、何かが起こる。そして毎日、何かに追われる。店舗数が2倍になれば、問題も2倍になる。そういう単純な話ではありません。店舗同士の連携、人材配置、情報共有、管理業務。店が増えることで、それまで存在しなかった問題が新しく生まれてくるのです。
それでも私は、自分が動けば何とかなると思っていました。現場に行く。スタッフと話す。問題を解決する。また次の店へ行く。ある意味、経営者として一生懸命だったのだと思います。ただ、決定的に間違っていました。
自分が頑張れば解決する仕組みは、自分が頑張れなくなった瞬間に止まってしまう。
会社の仕組みをつくるべき時期に、私は自分の労働時間を増やすことで対応していたのです。
■ スマートフォンとLINEの時代に、私はアナログ経営を続けていた
当時は、スマートフォンが普及し、LINEなどのコミュニケーションツールが急速に広がり始めた時代でもありました。今なら、複数店舗を管理するための仕組みはいくらでも考えられます。
売上の共有。スタッフの勤怠管理。店舗ごとの課題管理。オンラインミーティング。マニュアルの共有。離れた場所にいるスタッフとも、リアルタイムで情報をやり取りすることができます。
しかし、当時の私は、こうした変化に対応できていませんでした。基本的には、電話と現場。問題があれば、直接行く。人間関係に問題があれば、会って話す。もちろん、対面でのコミュニケーション自体が悪いわけではありません。飲食業にとって、人と人との関係は非常に重要です。ただ、それを経営者ひとりの移動と労力に頼っていたことが問題でした。
東京と仙台を行き来しながら、店舗ごとの問題に対応する。各店舗の状況を体系的に把握する仕組みも、十分ではありませんでした。今の言葉でいえば、経営のDXがまったく進んでいなかったのです。
そして、もっと深刻だったのは、情報共有の不足がスタッフ同士の関係にも影響していたことでした。以前は、互いの顔が見える距離で働いていた仲間たち。ところが、店舗が増え、拠点が離れるにつれて、少しずつ関係が薄くなっていきました。経営者である私自身も、現場との距離が遠くなっていました。
会社は大きくなっているのに、組織としての一体感は失われていく。
そんな状態だったと思います。
■ 一人辞め、二人辞め。仙台の仲間たちが離れていった
今でも、当時を振り返ると、いちばん胸が痛むのはこの部分です。仙台で一緒に店を育ててきたスタッフたちとの関係が、少しずつ変わっていったこと。
東京の店舗展開が進み、私の関心も、時間も、新しい仕事に向いていました。商業施設への出店の話。新しいブランドの開発。取引先との打ち合わせ。次から次へと舞い込む案件。
一方で、仙台の現場では、これまで私が直接関わっていた部分に、少しずつ隙間が生まれていたのだと思います。
そして、一人、また一人とスタッフが辞めていきました。当時の私は、その理由がよく分かりませんでした。「なんで辞めるの?」本当に、そんなことの繰り返しでした。
今なら、ある程度は想像がつきます。経営者の目線と、現場の目線が、完全にずれていたのです。
私にとっては、新しい出店も、会社の成長も、スタッフの未来につながる挑戦のつもりでした。しかし、現場のスタッフからすれば、目の前の店をきちんと運営できることの方が大切だったはずです。
人が足りない。相談したいことがある。職場の環境を改善してほしい。それなのに、社長は東京で新しい店の話ばかりしている。
そんなふうに見えていたとしても、不思議ではありません。
もちろん、実際に何を感じていたのかは、一人ひとり違ったと思います。ただ、少なくとも経営者として、現場の変化を十分に受け止められていなかったことは間違いありません。
そして、人が辞めると、残った人に負担がかかります。負担が増えれば、また人が辞める。その繰り返しです。仙台で築いてきた強い店舗運営の仕組みが、少しずつ崩れていきました。
今思えば、あの頃に立ち止まって、組織を立て直すべきだったのです。しかし、私には、それができませんでした。
■ 商業施設への出店。次のステージに進みたかった
当時の飲食業界には、ひとつの分かりやすい成功モデルがありました。街場の小さな店で成功する。店舗を増やす。ブランドを育てる。そして、大きな商業施設へ出店する。
私たちの世代には、商業施設に出店することが、飲食企業としての成長や評価につながるという感覚がありました。
もちろん、商業施設への出店そのものが悪いわけではありません。大きな集客力を持つ施設で、多くのお客様に自分たちのブランドを知っていただける。飲食企業にとって、魅力的な機会であることは間違いありません。私も、挑戦してみたかった。東京で勝負する以上、そこまで行ってみたかったのです。
そして、実際に商業施設への出店オファーが舞い込むようになりました。ただ、ここで大きな問題がありました。
私がそれまで得意としていた小箱の店づくりと、商業施設の店舗経営では、必要な経営能力がまったく違っていたのです。
まず、初期投資が違います。街場の小さな店であれば、物件の状態や業態の工夫によって、投資を抑えることもできます。しかし、商業施設では、施設側の設計基準や工事区分、指定業者、設備条件など、
出店者の裁量だけでは決められないことが増えてきます。工事費も大きくなりがちです。
さらに、営業時間や営業条件についても、施設全体の運営方針に従う必要があります。つまり、今までのように自分のセンスと現場感覚だけで勝負できる世界ではありませんでした。
それでも、私は進んでしまったのです。
これまで成功してきた。東京でも繁盛店をつくれた。だから、今度も何とかなるだろう。その程度の認識だったのかもしれません。
今なら分かります。出店することと、投資を回収できることは別問題です。売上が見込めることと、利益が残ることも違います。そして、利益が出ることと、資金繰りが安定することも、まったく別の話なのです。
■ 年商5億円でも、自由に使えるお金があるとは限らない
飲食店経営をしたことがない方からすると、年商5億円という数字は、それなりに大きく見えるかもしれません。私自身も、当時はその数字にある種の達成感を持っていたと思います。
しかし、売上は利益ではありません。そして、利益は現金でもありません。ここは、経営において非常に重要な部分です。
飲食店には、毎月必ず支払わなければならないお金があります。仕入れ代金。人件費。家賃。水道光熱費。その他の経費。さらに、新規出店を続けていれば、内装工事費や設備投資、借入金の返済もあります。
仮に、既存店がしっかり利益を出していたとしても、その利益が新しい店舗の投資や、
過去の出店に伴う支払いに回ってしまえば、手元に現金は残りません。
そして、出店規模が大きくなるほど、ひとつの判断ミスが会社全体に与える影響も大きくなります。私の場合、商業施設への出店によって初期投資が増えたことが、経営の重荷になっていきました。
ただし、ここで誤解してほしくないのは、商業施設が悪かったという話ではないことです。問題は、私自身の経営判断でした。
自分たちの会社が、どれだけの投資に耐えられるのか。
その判断が十分にできていなかったのです。事業を大きくすることに意識が向きすぎて、事業を守るための仕組みが追いついていませんでした。
■ いつからか、現場に行きたくなくなっていた
この頃の自分を思い出すと、少し情けなくなることがあります。もともと私は、現場が好きで飲食店を始めた人間です。
新しい店を考えることが好きだった。スタッフと一緒に店を盛り上げることが好きだった。お客様が喜ぶ姿を見ることが、何より嬉しかった。ところが、いつからか、現場に行くことが負担になっていました。
店に行けば、何か問題がある。誰かから相談される。何かを決めなければならない。経営者として、当然向き合うべき仕事です。
しかし、当時の私は、そうした問題に追われることに疲れていました。現場に足を運ぶことが、楽しみではなくなっていたのです。
これは、自分にとって非常に大きな変化でした。飲食店を始めた頃の私は、店に行きたくて仕方がなかった。それが、いつの間にか、店に行くことをためらうようになっていた。この時点で、何かがおかしかったのだと思います。
ただ、当時はそれを認めたくありませんでした。
自分が始めた事業です。自分がつくった会社です。自分を信じてついてきてくれたスタッフもいます。金融機関からの借り入れもあります。だから、簡単には止まれない。その結果、私はさらに新しい仕事へ向かっていきました。
目の前の問題を解決するためではなく、何か大きなことをすれば状況が変わるのではないか。そんな考えが、どこかにあったように思います。
■ 「何かすごいことをしないと、忘れられる」
東京には、独特のスピード感があります。
新しい店が生まれる。話題になる。メディアに取り上げられる。そして、次の新しい店が登場する。昨日まで話題だった店が、いつの間にか過去のものになっている。
飲食業界の中心にいると、そうした変化を肌で感じます。当時の私は、そこに焦りを感じていました。「何かすごいことをしないと、忘れられるんじゃないか」そんな感覚です。
今なら笑ってしまいますが、当時は本気だったと思います。別に、誰かと競争する必要などなかったのです。
自分たちの店を大切にして、お客様に喜んでいただき、適正な利益を出していれば、それで十分だったはずです。しかし、私はいつの間にか、店のお客様ではなく、業界からどう見られるかを気にするようになっていました。
もっと大きな仕事を。もっと話題になる仕事を。もっと次のステージへ。そうやって、自分自身を追い込んでいったのです。
仙台で7店舗を経営していた頃には、十分に利益を出しながら、ある程度、自分の目の届く範囲で事業を動かせていました。ところが、年商5億円になった頃には、事業を守るために毎日走り回っていました。
会社は大きくなった。でも、経営者としての自由は、小さくなっていた。何とも皮肉な話です。
■ 登れない山に登って、降りられなくなっていた
今の私は、自分の得意な仕事を比較的はっきり理解しています。新しい事業を構想すること。ゼロから仕組みをつくること。人と人をつなぎ、プロジェクトを立ち上げること。複雑な課題を整理し、実現に向けて動かすこと。こうした仕事には、自分なりの強みがあると思っています。
一方で、大きな組織を継続的に管理し、何百人ものスタッフを束ねるような経営は、当時の私には向いていませんでした。もちろん、学習し、仕組みを整えれば、違う結果になったかもしれません。ただ、少なくともあの頃の私は、そのための準備も能力も十分ではありませんでした。それなのに、自分の得意分野とは違う方向へ、どんどん進んでしまった。例えるなら、登れない山に登ってしまい、途中で降り方が分からなくなったような状態です。
借り入れが増える。スタッフが増える。店舗が増える。会社の規模が大きくなる。
すると、今度はその規模を維持するために、さらに売上を増やさなければならなくなる。本来、事業を成長させることは、経営を豊かにするための手段だったはずです。しかし、いつの間にか、成長すること自体が目的になっていました。そして、成長を止めることが怖くなっていたのです。
会社を大きくする勇気はあっても、立ち止まる勇気がなかった。
これが、当時の私のいちばん大きな弱さだったと思います。
■ それでも、まだ店は繁盛していた
ここまで読むと、すべての店舗がうまくいかなくなったように感じるかもしれません。しかし、実際はそうではありませんでした。繁盛している店もありました。お客様から支持されているブランドもありました。現場で一生懸命働いてくれているスタッフたちもいました。だからこそ、難しかったのです。
もし、すべての店が赤字で、お客様も来なくなっていたのであれば、もっと早く決断できたのかもしれません。しかし、現実には、利益を生み出している店舗がある。ブランドにも価値がある。まだ何とかなる。そう思えてしまうのです。
そして、その利益が、別の店舗の負担を支えるために使われていく。新しい投資の支払い。撤退した店舗に関わる費用。過去の経営判断によって生じた負担。ひとつひとつは、何とか対応できるように見える。しかし、それらが積み重なると、会社全体の資金繰りを圧迫していきます。
気がつけば、繁盛店が生み出したお金が、過去の失敗を埋めるために使われていました。それでも、私はまだ諦めていませんでした。いや、諦めるという選択肢を考えられなかったのかもしれません。ここから先、経営はさらに厳しい局面へ進んでいきます。
店舗の売却。商業施設からの撤退。そして、資金繰りの悪化。会社を残すために決断したことが、さらに新しい問題を生んでしまう。そんな日々が続くことになります。
次回は、経営者として最も苦しかった時期のひとつについて書きたいと思います。繁盛店があるのに、なぜお金がないのか。そして、なぜ売上を上げるだけでは、会社を救うことができなかったのか。今だからこそ、当時の失敗を経営の視点から振り返ってみたいと思います。
次回・DAY 6「繁盛店があるのに、お金がない。」――過去の失敗が、未来の利益を食いつぶしていく。FOREST FOOD WORKSForest Estate株式会社
